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月の歌うたい

韻文
ここは
「詩を書こう!」
という主旨のサイトなので
一応「韻文」というものについても少しは触れておかなきゃなあ・・・
ということで
今日は「韻文」について、思うところを書いてみます。



「詩」は、散文ではなく、韻文に属します。

「韻文」とは、あまり耳慣れない言葉ですが
一定の型を持つ文章のことです。

・聴覚に一定の定まった形象を感覚させる一定の規則(韻律)に則って書き表された文章。
・散文の反意語。
・多く詩において用いられる。
・一定のリズムを持ち、暗誦されるのに適しているため、古代から神話や歴史の叙述に用いられてきた。(Wikipediaより)

日本の短歌や俳句は、リズム(拍子・音数)が定められたものの典型例です。
漢詩では、文字数だけでなく、押韻も重要な要素となります。
西洋の詩も脚韻を重視するようですね。

Wikipediaによると
・古英語などゲルマン語の古い韻文では、頭韻も重視された。
とあり、押韻が意味を成さない日本語を話す私(日本語しかわからない)からすれば
「ほ、ほう。そうなのか・・・。難しそうだな。」
ぐらいの感想を持つのみですが・・・(汗)。

注:「頭韻」・・・文頭の音を揃えること
  「脚韻」・・・文末の音を揃えること



日本で韻文といえば
和歌(短歌、長歌など)や俳句、川柳のことを指すのがほとんどです。
(楽曲につけた歌詞は、若干韻文の要素があると言えるかもしれません。)

その意味で言えば・・・ですが
一般に日本語で書かれた「詩」と呼ばれるもの(自由詩)は
韻文とはちょっと言い難いところもあります。

不定型ですし、押韻もありませんし・・・。
でも、散文とは区別されます。

・句読点不要(あってもなくてもいい)
・語句と語句の間に空欄を入れてもいい
・改行は好きなところでしていい
・改行のとき、一字分下げる必要はない
(逆に、好きな箇所で何字分下げてもかまわない)

などなど
散文に比べて自由度が高いという特徴がありますが
そういう特徴だけで「詩」と呼んでいるわけでもなさそうです。
しかも、これらの特徴は韻文の条件とは何の関わりもありません。

つまり、日本語の「詩」は
決して散文ではないが、韻文の特徴を外観的に持っているわけではない
と言えます。

では、「詩」とは何か?・・・
という「詩」の定義について明確に示そうとすれば
これはもう、途方もない量の説明を要するでしょうし
たとえ説明できたとしても、大事なところがボロボロ抜け落ちるという
欠陥が生じるでしょう。

抒情詩、叙事詩、叙景詩、劇詩・・・などと言って解説してはみても
それらは単に「詩」を分類したに過ぎません。

そもそも日本には「漢詩」が導入されるまで「詩」はなかったとも言えます。
「歌」こそが日本の「詩」であったし
漢語の「詩」もまた、「うた」と訓読みされたことからも
日本人にとって「詩」も「うた」であり
形式が異なってはいても
内的心象と外的事象を言葉によって織り成す「うたうもの」であることに
変わりはなかったと言えるでしょう。

韻文と散文との大きな違いは、実はここにあるのだと思います。
韻文とは、文字で記された「うたうもの」のことではないでしょうか。



ところで
「散文的」に対して「詩的」という形容の語句がありますが
「散文的」とは、詩情に乏しいとか平凡で面白みがない様子のことで
あまり良い意味では使いません。
反対に、「詩的」とは、詩のような趣がある様子のことで
たとえば
・リズム感のある文章
・比喩や擬人法を上手く用い、間接的に表現していく文章
(説明のための言葉を直接使わない)
などが「詩的」と呼ばれ
そのような趣を持つものに対して「詩的」という形容がなされます。

他にも
・言葉が指し示す「もの」のイメージに直にふれることで
 その「もの」の奥にある、共通体験を喚起させるような文章
も、「詩的」と呼ばれます。

こう考えると
「韻を踏んでいる」とか「定型である」といったような
外観的事情による「韻文」の定義(特徴)よりも
むしろ、上に青色で列記した「詩的」の条件の中に
「詩」の本質があるのだと思われます。

そして、「詩」の本質の行き着くところに
「言葉」の(生成の)秘密が隠されているような気がしています。

「韻文」は「散文」に比べて制約があること(定型、押韻、対句など)が特徴ですが
こと、日本の現代自由詩においては事情は全く異なり
むしろ、制約をはずしてはずして、とことん自由に向かっている印象さえあります。

しかし、それはあくまで表面的な、形式上の話だと思うのです。

その理由について、少し考えてみたいと思います。



先ほど、「詩」の本質は形式にあるのではないといった意味のことを述べましたが
では、何故「詩」(日本では「歌」)には
元々形式(制約)が決まりごととしてあったのでしょうか?

もちろん、そのような難しいことが私にわかるはずもないのですが
ここは想像をたくましくして推し量ってみると・・・

制約があった方が作りやすいという、逆説的な理由が浮かび上がります。
何もないところから始めるよりは
音数が決まっている(五七五など)方が、言葉を思い浮かべやすいのではないかと思います。

余談ですが、短歌には「折句」や「沓冠」という技法があります。

注:語頭をつなぐと、ある一つの言葉になる(折句)
  語頭と語尾とをつないで、特定の文を埋め込む(沓冠)

結果的に折句(あるいは沓冠)になったというような
偶然によってできるものではありません。
あらかじめ埋め込む言葉を決めておいて
それに従って短歌を作ると案外うまく作れるものです。

話を元に戻して・・・

がんじがらめの制約ではいけませんが
ある一定の型があると、その中では恐れを抱くことなく自由に動けるという
人間の基本的な心理が作用しているのかもしれません。

だから、形式上の制約をはずすことは
「詩(自由詩)」にとって、非常に難しい局面に差し掛かることを意味する
とさえ言えるかもしれないのです。
形式(制約)から離れて、どれだけ「詩」の本質に迫れるか・・・
が、問われてしまうわけですから。



さてさて、またまた話は変わりますが

「詩」にとって(おそらく最も)重要な要素である「音(音声)」について
少し考えてみたいと思うのですが
あまりに深遠かつ広大な事柄なので
ほんの少しだけ、一点に絞って書いてみます。

漢詩や西欧詩では押韻がありますが
(中国語も西欧語も私はさっぱりわかりません。知識として知っているだけなので、その点ご了承ください。また、その他の国の言語についてはもっとわかりません。悪しからず。)
日本語の詩にはそれがありません。
というより、できたとしても意味がないのです。

散文で考えるとよくわかるのですが
日本語では、語順が明確に決定していないとは言え
述語(述部)が文末にくることがどうしても多くなります。
すると、語尾のバリエーションが少なくなり
「だ」「である」「~った」(常体の場合) 
「です」「でした」「ます」「ました」(敬体の場合)など・・・
ばかりが文末にきてしまいがちになるのです。
これでは、押韻の効果(躍動感や流動性、リズム感など)が生まれる余地がありませんね。

ところが、です。
日本語には、「終助詞」というスグレモノがあるのです。

これは、散文ではあまり使われることがなく
もっぱら音声による「語り」で用いられるものです。

疑問を表す「~か」については、散文でもよく使われますが
方言を含む「語り」の中に、多くの終助詞が出てきます。

「~や」「~じゃ」「~のう」「~よ」「~わ」「~て」「~と」「~な」
こうして、それだけ並べるとイメージがわきにくいかも知れませんが
昔話を老人が語っている場面を想像されるとわかりやすいでしょう。

   昔むかしのことじゃて。
   ある村に、一人の婆さんがおってのう。   

うまい「語り手」は、こういった語尾を微妙にうまく使い
語りの中に、リズム感、躍動感を生み出していきます。

形式化された押韻という型がなくても、日本語の語りには
このように語尾を巧みに操る術があったと思われます。

たとえ、「語り」が文字起こしされて文章化したとしても
それを読む者は、目で文字を追いながら「喉」を微かに動かし
耳には聞こえない音声を辿っているのです。

音声による「語り」は、「詩」「うた」ではありませんが
多分に韻文的な要素を持っていると言えるでしょう。
(動物や植物のみならず、石や山までが人間と対等に生き、話すものとして登場する辺りは
究極の擬人法とも言えますね。)





最後に、文字によって書かれた「詩」の字面についても
若干触れておきたいと思います。

日本語は、漢字・平仮名・片仮名という三種類の基本の文字に加え
近頃ではアルファベットも抵抗なく使われるようになりました。

詩を書く場合、「外来語は片仮名で」という、教科書的な決まりはありません。
平仮名のやわらかい雰囲気や片仮名の硬い雰囲気は
字面に大きな影響を与えます。
漢字になると、それ(その字が持つ雰囲気)がまた複雑に作用します。

空間のあけ方(間の取り方)や
字の大きさも、一定である必要はなく
一つの詩が、一枚の紙の上で
あたかも絵画のように、一瞬で何かをうったえてくることがあります。
別に、肉筆でなくても(印刷された活字であっても)
その効果は充分にあります。

こうなると、字の巧拙といった、後天的に習得される技術は二の次で
音声とはまた別に、空間的な芸術の側面を詩は持っていると思います。
(実際、短冊や色紙に書かれた優れた和歌は重宝がられてきました。)



「詩」は、時間的なもの(音声)と空間的なもの(字面)の両側面から
心象風景を伝えてくるものなのかもしれません。

そういう点で、「自由詩」(定型でなくても)は、やはり「韻文」なのですね。






ちょっとだけにしようと思って書き始めたのに
ずいぶん長くなってしまいました。

書き足りないところもあるのですが
それはまた次の機会に・・・ということで。

では、また~!










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